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東京地方裁判所 昭和51年(ワ)10849号 判決 1979年6月25日

原告

松永優

右訴訟代理人

知念幸栄

外五名

被告

右代表者法務大臣

古井喜實

右指定代理人

和田衛

佐藤義尚

主文

一  被告は原告に対し、金三五〇万円及び内金三〇〇万円に対する昭和四六年一二月八日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを二分し、その一を原告の負担、その余を被告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  原告

1  被告は原告に対し、金一五二八万八八〇二円及び内金一三四四万四三六六円に対する昭和四六年一二月八日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  被告は原告のために、別紙第二記載の要領により、別紙第一記載文面の謝罪広告をせよ。

3  訴訟費用は被告の負担とする。

4  第1項につき仮執行の宣言

二  被告

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

3  担保を条件とする仮執行免脱の宣言

第二  原告の請求の原因

一  原告を「被告人」とする殺人被告事件の概要

1  原告は、昭和四六年(一九七一年)一一月一六日、沖縄の刑法による殺人被疑事件により通常逮捕された後、同年一二月八日、那覇地方検察庁より同法による殺人被告事件の被告人として、那覇地方裁判所に起訴された。

那覇地方検察庁検察官検事高江洲歳満作成名義の起訴状記載の公訴事実は別紙第三記載のとおりである。

右公訴事実につき、検察官は、昭和四七年二月二五日、本件被告事件の第一回公判期日において、弁護人の求釈明に答えて、別紙第四記載のとおり釈明を行つた。

さらに、検察官は冒頭陳述において、別紙第五記載のとおり陳述したので、本件殺人事件は、原告が炎の中から山川巡査部長をひきずりだし、その直後、足踏み行為をするなどして、殺害行為を行つたという点を訴因として特定し、起訴されたものであることが明確になつた。

2  これに対し、原告は、捜査段階から一貫して、自己の行為は山川巡査部長の殺害を意図したものではなく、逆に炎に包まれていた被害者を引きずり出し、消火をして救出しようとしたものである旨の供述を繰り返し、無実を訴え続けた。

3  本件被告事件は、那覇地方裁判所及び福岡高等裁判所那覇支部において審理がなされ、その結果、昭和五一年四月五日、同裁判所那覇支部は原告の主張を認め、原告の行為は被害者に対する残虐な殺害行為とは正反対の率先した救助行為としての消火行為と目するのが合理的である旨判示して、原告に対し無罪の判決を言渡し、右判決は上告されることなく同月二〇日確定した。<以下、事実省略>

理由

一請求原因一項の事実は当事者間に争いがない。

二そこで、検察官による本件公訴の提起について違法性の有無を判断する。

検察官による公訴の提起は、刑事事件において無罪の判決が確定したからというだけで直ちに違法となるというものではなく起訴時において、検察官の収集した証拠資料を総合勘案して、合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があれば足り、有罪と認められる嫌疑がないのにかかわらず、あえて公訴を提起した場合には違法となるものと解するのが相当である。しかして、右にいう有罪と認められる嫌疑は、その性質上、裁判所が有罪判決をする場合のように合理的な疑いをさしはさむ余地がない程度の心証とは異なるが、逮捕、勾留の要件である罪を犯したと疑うに足りる相当の理由程度の心証では十分でない。

右の見地から本件公訴の提起について、起訴時に有罪判決を期待しうる嫌疑があつたか否かを検討する。

1  <証拠>を総合すると、次の事実を認めることができる。

(一)  昭和四六年一一月一〇日、那覇市内所在与儀公園において、数万人の参加者を集め沖縄県祖国復帰協議会主催の「沖縄返還協定の批准に反対し完全復帰を要求する県民総決起大会」が開催され、引続き参加者のテモ行進が行なわれた。同日午後五時五〇分ころ、浦添市勢理客一番地先の旧一号線勢理客交差点附近において、警備中の琉球警察警備部隊所属の巡査部長山川松三が右大会に参加した一部の過激派集団によつて殺害される事件が発生した。

そのため、琉球警察は直ちに特捜本部を設置し、普天間警察署刑事課長嘉手苅福信らを捜査主任官として、右捜査の指揮に当らせ、同月一六日原告を山川巡査部長殺害の容疑で通常逮捕した。

(二)  那覇地方検察庁公安部長検事高江洲歳満は、原告の逮捕当日、特捜本部よりその旨の報告を受け、同月一八日関係書類とともに身柄の送致を受けてから、担当検察官として捜査を行つた。同年一二月八日、同検事は、原告につき別紙第三記載のような殺人罪の嫌疑が認められると判断して、右公訴事実により原告を那覇地方裁判所に起訴した。

(三)  本件刑事事件の第一、二審において、検察官から取調請求のあつた証拠資料は多数にのぼるが、起訴時において、同検事が収集していた証拠資料のうち、原告と本件犯行とを関係づける主なものは、司法警察員山城常茂作成の現認報告、同長嶺紀一作成の現認報告書、同久田力男作成の捜査報告書、同上原勝三作成の資料入手報告書中の読売上、下段の写真、同新里久清作成の写真撮影報告書、同喜久里伸ら作成の写真焼付報告書中の平野写真、同仲間守栄ら作成の捜査報告書、吉川正功撮影の映画フイルム及びその焼付写真、岸本嘉宗、前川朝春の警察官調書、宇保賢二の警察官調書二通及び検察官調書一通、原告の警察官調書六通及び検察官調書一通、弁解録取書二通及び勾留質問調書並びに医師高橋建吉作成の鑑定書である。

2  そこで、以下右証拠資料を検討したうえ、これにより合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑があつたか否かについて、本件前後の原告の行動をも併せ考えこの点につき審究する。

(一)  与儀公園における原告の行動

<証拠>を総合すると、与儀公園における大会中午後三時五五分ごろ大会に参加していた革マル派集団が同公園の正面入口において、警備していた琉球警察警備部隊第一大隊に対し火炎びんを投てきしたこと、そこで右革マル派集団を規制するため同公園内に同大隊の一箇中隊が進入したところ、更にこれに対し、公園内にいた革マル派、中核派等の過激派集団及び一般労組員が投石したり、旗竿で突きかかるなどの攻撃を加え、前進しようとする右中隊との間で一進一退を繰り返す騒ぎが続いたこと、右衝突の際、原告は大会参加者のほぼ最前列に位置して、「機動隊紛砕」などと大声を挙げて叫んでいたことが認められる。

(二)  本件犯行時における原告の行動

<証拠>によると、同検事は、本件捜査において、警察官殺害の実行行為として原告が被害者の右腰部附近を足蹴りした行為(以下「第一行為」という)及びその後路上に転倒し火炎びんを投げつけられていた被害者を炎の中から引きずり出し、顔面等を踏みつけたりしたという行為(以下「第二行為」という)の双方を取り上げ捜査の対象にしたことが明らかである。そこで原告の行為を右第一、第二の各行為に分けて順次検討を加える。

(1) 第一行為について

<証拠>を総合すると、原告は、勢理客交差点の路上において、被害者が過激派集団に捕捉され旗竿等で殴打されていた際、その右腰部附近を不安定な姿勢で一回蹴りあげたこと、同交差点附近の位置関係は、おおよそ別紙添付図面<省略>表示のとおりであること、被害者の所属していた警備部隊第四大隊第二中隊六八名は、事件当時右交差点のVFWに通ずる道路の入口附近に、電力公社から勢理客派出所にかけて二列の隊列を組んで警備し、安謝方面から仲西ゲート方向に進行するデモ隊がVFW方面に侵入しないよう阻止していたこと、午後五時二五分ころデモ隊の第一集団(教職員グループ)が右交差点を平隠に通過した後、第二集団(県労協グループ)が到着するまでしばらく時間があつたこと、午後五時五〇分ころ白ヘルメツトに目と口の部分をくりぬいた覆面姿の過激派集団が県労協グループの前方に位置して右交差点にさしかかるや、それぞれ手に火炎びんを持つていきなり走り出し、右警備部隊に対し一斉に火炎びんを投てきしたこと、そのため、機動隊員は隊列を崩して左右後方に退避し、一部はトヨタオート沖縄株式会社の構内に逃げ込みシヤツターを降したが、被害者外一、二名の隊員は右過激派集団に向つていき、そのうち被害者のみが右集団に捕捉され、数名の男に取囲まれて角材、旗竿などで乱打され、足蹴にされるなどの暴行を受け、添付図面点附近に転倒したところ、さらに火炎びんを投てきされて炎に包まれたこと、被害者はそのころ右路上において脳挫傷、蜘蛛膜下出血等多数の傷害を受けて死亡するに至つたことが認められる。

してみると、原告が過激派集団に暴行を受けていた際被害者の右腰部を一回足蹴にしたことは明らかであり、右行為は、右認定の被害者死亡に至るまでの経緯に照らして、過激派集団が最初に火炎びん攻撃をしてから被害者が転倒し炎に包まれるまでのきわめて短時間内の出来事であつて、後記第二行為とは時間的、場所的にもかなり近接していたことが認められる。

(2) 第二行為について

<証拠>を総合すると、原告は、右足蹴り行為(第一行為)後、その場から移動し、しばらく過激派の火炎びん攻撃を見ていたが、突然原告の左前方に炎のあがるのが見えたので、その場へ小走りに駆け寄つてみると、道路上に被害者が炎に包まれて仰向けに転倒していたこと、原告は咄嗟に被害者の体を掴んで約一メートル位右図面地点まで引きずり出し、被害者の左腕附近の路上の火を足で踏み消したりして救助しようとしたが、その際原告は右手に火傷を負つたこと、そこで右周辺にいた他の者らも次々と駆けつけ、原告と同様に路上の火を踏み消し、ついで被害者の身体にジユラルミンの楯や旗を被せるなどして衣服に燃え移つた火を消火したことが認められる。

もつとも、<証拠>によれば、宇保は、原告が被害者を火の中から一メートル位引きずり出し、右足で同人の顔面を二回踏みつけ、左横腹を一回蹴りあげた行為を目撃した旨供述しているので、この点については後に検討する。

(三)  本件第二行為後の原告の行動

<証拠>を総合すると、本件第二行為後しばらくして仲西ゲート方面から応援の機動隊が到着し、午後六時ころガス弾を発射して勢理客交差点周辺の過激派集団及び群衆を完全に制圧し、強力な検挙活動を行つたこと、原告は火傷した右手をタオルで巻いて応急処置をし、右交差点から五、六〇メートル離れた安謝橋電機店前附近にて検挙の難を避けていたが、右機動隊員らに向け、「もつと人道的に扱え」などと激しい言葉で警察権力の行使に抗議していたことが認められる。

(四)  そこで、本件事件の捜査の過程についてしらべてみるに、<証拠>を併せ考えると、次の事実が認められる。

(1) 琉球警察特捜本部は、本件を過激派集団の犯行と見て全力を挙げて聞き込み捜査を開始したが、沖縄の本土復帰前の異常な事態の下に発生した事件につき、労組、マスコミはもとより一般市民も捜査に非協力的であつたため、当初から捜査が難航した。原告は、当時白色のアノラツクを着用し集団の中でひときわ目立つ大柄な体格(身長約一八二センチ)であり、事件後読売新聞に第一行為の現場写真が掲載されたほか、与儀公園における集会から本件犯行後に至るまでマークして写真撮影されていたので、特捜本部では有力な容疑者の一人と判断し、その行方を追跡していたが、同年一一月一六日琉球博物館で陳列品を観ていた原告を通常逮捕し、本土過激派集団から派遣された活動家であると発表した。しかし、取調べの結果、原告は完全否認していたので高江洲検事の指示に基づき、目撃者の発見及び犯行現場写真の入手に努め、本件起訴までに、目撃者として宇保賢二を捜し出し、同人の警察官調書二通、検察官調書一通を作成し、また犯行現場写真として読売写真、平野写真、吉川正功撮影の映画フイルムを重要証拠として収集した。しかし、右のとおり捜査に協力する者が少なく、読売写真の撮影者である酒匂カメラマンとの接触も拒絶され、また平野写真の撮影者である平野富久も自己の名を公表しないことを前提にようやく写真の提出に応じた。なお吉川正功は、犯行当時一連の記録映画を撮影していたが、大量検挙により公務執行妨害の現行犯として逮捕され、その際、映写機とともに映画フイルムを押収され、右押収にかかるフイルムは直ちに警察庁に現像のため鑑定嘱託され、同年一一月末ころプリントとそのうち三〇数コマのネガフイルムが返送されてきた。しかし吉川も同年一一月一二日に釈放されたが、その後は特捜本部及び検察官の事情聴取に応じなかつた。原告は、同年一一月一九日、勾留質問を受けた際に裁判官から初めて平野写真等を示され、被害者を救出するため消火していたものである旨供述した後、一貫して、被害者を炎の中から引きずり出し、その身辺の火を足で踏消そうとした消火行為である旨供述して無実を主張し、右主張に沿う警察官調書三通及び検察官調書一通が作成されたにすぎない。

(2) 高江洲検事は、当時11.10ゼネストの暴動による大量検挙のため約六〇名の身柄事件を担当し、その事件処理に忙殺されていたので、同年一一月二一日に原告を取調べ、同人の右弁解に沿う供述書を記載させて簡単な検察官調書一通を作成したのみで、引続き同月二九日まで警察官をしてその取調べをさせ、翌三〇日目撃証人宇保賢二を取調べ、同人の警察官調書同旨の検察官調書一通を作成したのみで、十分な取調べをしないまま同年一二月八日原告を起訴する旨告げた。その間、同検事は、読売写真、平野写真及び吉川の映画フイルムについて撮影者から撮影時の状況について説明を得られなかつたため、これを仔細に対比検討したり、映画フイルムの一コマづつを拡大映写して原告の行為が殺害行為か又は消火行為かの観点から事件を究明することなく、警察官の見込捜査とこれに沿う唯一の目撃証人宇保の供述を軽信し、原告の警察権力に対する反感とその一連の行為から過激派集団との共謀による殺害の意思を認定し、前記第二行為を訴因として殺人罪により起訴(別紙第四の検察官の釈明)するに至つた。

(3) しかし、同検事が当時前記証拠資料を精査していたならば、(イ)平野写真は映画フイルム一九コマないし五六コマが撮影される間に、別の角度から撮影されたものであることが認められること、(ロ)三七コマないし五六コマの映画フイルム自体から原告が被害者の左腕附近の路上の火を踏み消していることが看取され、その後の消火行為から推して原告の行為が被害者を救助するためにした消火行為と認められること、(ハ)読売上段の写真によれば、原告がまさに倒れかかつている被害者を蹴つている前記第一行為が明らかであるが、右行為から直ちに同一意思の発現に基づく一連の残虐な殺害行為に及んだものとは推認できないし、読売下段の写真もそれ自体としては何らの裏づけ証拠とはならないこと、(ニ)目撃者である宇保は、現場から約一〇メートル離れた高さ約1.8メートルのブロツク塀の上から原告の行為を目撃したというのであるが、既に日没後で現場は薄暗くなつていたし、被害者の身辺及び路上から火煙が上つており、その周辺の者の行為が必ずしも正確には観察しえない状況にあり、写真と同様見る角度により被害者を踏みつけているのか火を消しているのか必ずしも判然としないし、同行の前川は原告の行為を目撃していないのみならず、当時他に捜査の協力者を得られなかつた事情を考慮すれば、宇保が保護観察中の少年であつたため、警察官らの取調べに対し、客観的事実を歪めて迎合的な供述をした疑いがあり、その供述はにわかに信用できないこと、(ホ)前記のように群衆の中にあつて、きわめて目立つ大柄な存在であつた原告が、衆人環視の中で右手に火傷を負いながら、死に瀕した被害者を炎の中から引きずり出し、なおも執拗に顔面を踏みつけ脇腹を蹴るなどの大胆な兇行に出ることは、特段の事情が認められないかぎり経験則上容易に首肯できないこと、(ヘ)しかも原告は、家業の染色業に従事し、単身本土から沖縄に伝統工芸である紅型研究のため渡航して本件事件の被疑者として逮捕され、逮捕時も琉球博物館の展示品を観覧中であり、殺人犯人の犯行後の行動として常識的には考えられない行為であるのみならず、特捜本部が当初発表したような過激派集団との背後関係も全く存しなかつたことが判明した。

(五) 以上の諸点を総合勘案すれば、本件につき原告を公訴事実記載のような罪名で起訴しうる事案でないことが判断しえたはずである。

そうだとすると、同検事は、本件起訴時までに収集した証拠資料の評価、経験則の適用を誤り、原告の供述を無視し、予断と偏見に基づき合理的な判断過程を逸脱し殺人の嫌疑ありと誤認したものというほかない。

したがつて、原告の第一行為(仮に後記訴因の変更が許可されたとしても)はもとより、第二行為を訴因としても殺人罪により有罪判決を期待しうる合理的な理由が存するものとはいえないから、本件公訴の提起は検察官の過失による違法の責めを免れない。

三次に本件公訴の維持について違法性の有無を検討する。

公訴の維持も刑事事件の審理の各段階における各種の証拠資料を総合して、将来有罪判決を期待しうる合理的な理由があれば、後に無罪の判決が確定したからといつて右公訴維持が違法になるというものではないが、公訴追行の過程において右のような合理的な理由も存しないのに、あえて公訴の維持を継続していた場合には右行為は違法となるものと解するのが相当である。本件において、原告の第二行為を訴因とする公訴の提起自体が違法であることは前記説示のとおりであるから、これに引続く公訴維持はその後新たな証拠資料が加わり有罪判決を期待しうる合理的な理由が具備されるに至るなど特段の事情が認められないかぎり、その追行行為もまた違法たるを免れない。

これを本件についてみるに、<証拠>によれば、本件刑事事件の第一審において、新たな証拠として証人平野富久が検察官の主張に沿うごとき供述をしたことが認められるが、他に本件起訴後新たな証拠資料が加わつたことを認めるに足る証拠はない。しかも、右証人平野は原告が被害者を炎の中から引きずり出したことにも気付いておらず、一連の事態の推移を十分に観察していたかどうかきわめて疑わしく、その供述の信憑性には多大の疑問を禁じえないとして刑事第一審判決において右証言が排斥され、第二審においても右判断が是認され、結局公訴事実を立証するに足る新証拠は存しなかつた。

また、検察官が刑事第一、二審の結審間近かの段階になつて訴因変更の請求をしたことは当事者間に争いがないところ、<証拠>を総合すると、検察官は、刑事第一審第一八回公判期日において、原告の第一行為を追加する訴因の追加的変更請求をしたが不許可になつたこと、更に刑事第二審の弁論終結後、同じく訴因の追加的変更請求を理由に弁論再開の請求をしたが却下されて、無罪判決が言渡され、右判決は上告することなく確定したことが認められる。したがつて、本件の場合は、結局適法な訴因の変更がなされなかつたのであるから、訴因変更の可能性を前提に本件公訴維持の適法性の余地を論じることは相当でなく、右行為もまた違法の誹りを免れない。

四昭和四七年五月一五日いわゆる沖縄返還協定に基づき沖縄の施政権が返還されたことは公知の事実であるから、高江洲検事は右同日まで琉球政府の検察官として、本件公訴提起及びその維持をしたものであり、右同日以降は同検事、神崎検事らが被告国の検察官として公訴を維持したものであつて、右はいずれも公権力の行使に当ることはいうまでもない。したがつて、被告国は原告に対し、沖縄の政府賠償法(一九五六年立法第一七号)、沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律(昭和四六年法律第一二九号)及び国家賠償法に基づき、右違法な行為により原告が被つた損害につき賠償の責任がある。

五次に進んで原告の損害について検討する。

1  慰謝料

(一)  原告が昭和四六年一一月一六日に逮捕され、昭和四七年七月二八日保釈されるまで二五六日間身体を拘束されていたこと、本件無罪判決の確定により刑事補償として金四三万九一〇〇円を支給されたことは当事者間に明らかに争いがない。

しかして、<証拠>によれば原告(当時二四才)は、亡父松永義秋の下で染色業に従事し右家業の傍ら鴻巣市民会議で文化活動をし、沖縄には紅型工芸研究のため渡航したものであるところ、沖縄返還協定に反対する当時の複雑な県民感情に共鳴して、11.10ゼネストの集会に参加し、たまたま本件事件に遭遇し、「本土出身の過激派の一人」であると新聞等で大きく報道され、被害警察官に対する救助行為を正反対の殺害行為と誤認されて起訴されたものであること、そして翌昭和四七年七月二八日保釈後も制限住居を那覇市と定められていたため、裁判中は郷里を遠く離れた沖縄の地で結婚し、妻子とともに同市内にて生活するのやむなきに至つたことが認められる。

してみると、原告がこと志に反し遠く離れた沖縄の地において、本土復帰前後の激動した異常な社会環境の下で被告人の地位に立たされ、無罪判決を受けるまでの間、四年六か月の長期にわたり多大の精神的肉体的苦痛を被つたことは容易に推測できるけれども、原告にも訴因外ではあるが、被害警察官を足蹴にした前記第一行為の非があり、これにより検察官の判断を誤らせる一因となつていることは否定できない。

(二)  原告が本件刑事事件において、知念幸栄、池宮城紀夫、上間瑞穂、井上正治、青木英五郎及び石田省三郎の各弁護士を弁護人に選任したことは当事者間に争いがない。

しかして、<証拠>によれば、本件起訴後、直ちに原告の家族友人の支援により鴻巣、東京にて「松永優を守る会」が発足し、また保釈後、地元沖縄でも多数の市民の協力を得て「松永闘争を支援する市民会議」が発足し、原告は右団体の物心両面にわたる強力な支援を受け、とりわけ刑事弁護費用等として多額の資金援助を受けたこと、原告もまた同様に多額の出費を余儀なくされたことは推認できるけれども、他に原告自身が負担した弁護人費用等の金額を確定するに足る的確な証拠が存しない。

(三)  以上認定のような諸事情及びその他本件に顕われた一切の事情を斟酌して、当裁判所は、原告に対する慰謝料として金三〇〇万円をもつて相当と認める。

2  民事弁護士費用

原告が、本件訴訟代理人である弁護士に訴訟の提起及び追行を委任したことは、訴訟上明らかであるところ、当裁判所は、本件事案の難易、請求額、認容された額その他諸般の事情を考慮のうえ、原告が被告に対し請求しうる弁護士費用は金五〇万円をもつて相当と認め、右は本件違法行為と相当因果関係に立つ損害というべきである。

六原告は被告に対し、金銭賠償のほか主張のような謝罪広告の掲載を請求しているが、右広告の掲載が原告の名誉回復のため必要であるとの点については、右主張に沿う原告本人の供述以外他にこれを肯認するに足る証拠がないので、本件においては右金銭賠償をもつて十分と考える。

よつて、原告の請求中謝罪広告の掲載を求める部分は理由がない。

七以上認定説示の次第で、原告の本訴請求は、慰謝料金三〇〇万円及び民事弁護士費用五〇万円並びに慰謝料額に対する本件公訴提起の日である昭和四六年一二月八日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で正当であるからこれを認容し、その余は全部失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条を適用し、仮執行の宣言は相当でないからこれを付さないことにして、主文のとおり判決する。

(土田勇 横山匡輝 石原直樹)

(別紙第一、第二)<省略>

(別紙第三)

公訴事実

被告人(原告)はかねてより警察権力に反感を抱いていたものであるが氏名不詳の者数名と共謀の上、一九七一年一一月一〇日午後五時五〇分頃、浦添市勢理客一番地中央相互銀行勢理客出張所先交叉点道路上に於いて、警備の任に当つていた琉球警察警備部隊第四大隊第二中隊第二小隊所属巡査部長山川松三(当四九年)を殺害せんと企て、同人を捕捉し、角材・旗竿で殴打し、足蹴し、顔面を踏みつけた上、火炎瓶を投げつけ、焼く等の暴行を加え、よつて右警察官を前記日時頃、前記同所に於いて、脳挫傷、蜘蛛膜下出血等により死亡させて殺害したものである。

(別紙第四)

検察官の釈明

(一) 本件殺人の共謀とは、実行行為共同正犯の意である。

(二) 本件の共謀の具体的日時場所は、起訴状中の同人を捕捉し、角材旗竿で殴打し、足蹴にしているのを認めて、そこで数名の者と共謀して殺意を生じたのである。

(三) 本件における被告人の具体的行為は、炎の中から炎につつまれている山川松三の肩をつかまえてひきずり出し顔を二度踏みつけ脇腹を一度蹴つた行為である。

(別紙第五)

検察官の冒頭陳述

午後四時頃、友人と共に与儀公園に至り集会に参加した。その後デモに移り、徒歩で牧青集団の近くを安謝迄同行した。安謝橋を過ぎ、勢理客交番近くまで到り、同所でドクロ覆面をした集団が交番所機動隊に攻撃を開始したのち、午後五時五〇分頃、多数の者で機動隊員をとりかこみ、滅多打ちしているのを目撃し、同人等と有無相通じ、その肩を掴えて、炎の中から右警察官をひきずり出し、顔面部を二度踏みつけ、脇腹附近を一度足蹴りしてその場を離れた。

別紙図面<省略>

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